塔婆供養について
日頃、私達はお彼岸・お盆・あるいは故人の命日などにお寺へ参詣し、塔婆を建てて追善供養を行っていますが、もし、なぜ塔婆を建てて供養をするのか、と聞かれた時に、はっきりと答えられる人は案外少ないのではないでしようか。たしかに何も知らずに塔婆を建てても、正しい宗教によって行われるなら、それは立派な追善供養を営むことになります。
しかし一歩あやまって、まちがった教えによって行うならどうでしょう。亡くなった人のために善を修する行為が、反対に苦の因を作るばかりか、自分もその苦しみを味わうことになってしまいます。これではせっかくの尊い気持も台無しです。このように、宗教の正邪を知らないで塔婆供養をするということは、大変おそろしいことなのです。また、建てるように言われたからといって心のこもらない、形だけの塔婆供養であっては真の追善供養の意義からはずれてしまうのも当然のことです。
今、心から故人のことを考え、先祖のことを思うとき、私達は無関心や形式になずむだけでなく、はっきりとその由来や意義、あるいは正しい心得を知らなくてはなりません。
そして、それを確信することにおいて始めて本当の追善回向が生きるのです。そこで塔婆建立のいかに大切な事かを知って頂きたいと思います。
塔婆は梵語でスツーパといい、これを訳すると、方墳・円塚・霊廟・大聚(功徳のあつまりの相)ということになります。
塔婆の歴史は随分古く、はっきりと形に現わされはじめたのは釈尊が亡くなってから200年余り後の阿育王の時代からです。その種類もさまぎまで大きいのはピラミッドのようなものから、五重の塔・五輪塔婆・角塔婆・板塔婆・石塔婆・経木塔婆等に至るまで27・8種類にもなります。
もともと塔婆は、丸や角の形を積み重ねて一つの体をあらわしています。下から方形(四角)・円形・三角形・半円形・如意宝珠の順序で五輪の塔に組立てるのが基本的な形で、これは地水火風空の五大、すなわち妙法蓮華経の五字をあらわすことになります。
この五大をあらわす順序の中で、方形というのは地輪、円形は水輪、三角形は火輪、半円形は風輪、如意宝珠は空輸になります。一番下の方形は地輪で地面を意味し、水は地面の上に溜るので地の上になり、火は水より高く空中に昇る性質があるので水輪の上になり、風は火よりも上に昇ることが出来るので火輪の上になり、空は最も上にあるので一番上に載せるわけです。そして地輪は四角に表現し、水輪は円く、火輪は三角に、風輪は半月型に、空輪は珠型に形造るのです。このように形造られた五大は妙法蓮華経の真理のあらわれと見られます。
御義口伝に「我等が頭は妙なり、喉は法なり、胸は蓮なり、胎は華なり、足は経なり。此の五尺の身妙法蓮華経の五字なり」(新編1728頁)と説かれています。さらに総勘文抄に「五行とは地水火風空なり。乃至是則ち妙法蓮華経の五字なり」(新編1418頁)
と仰せられています。
このようなことから考えますと五輪の塔婆は妙法蓮華経という仏様の体を表現したものであるという事になります。
塔婆にお題目を書き「此中已有如来全身」と経文を書くのは、この塔婆は、もう仏様のお体であり、この仏様のお心のなかに亡くなった人が一緒におられるということを示すのです。
塔婆を建てるのは、建てる人の信心と追善の願力とによって、亡くなった人の霊を仏身にあらわすのであり、御本尊を通じてお題目を供養する故に、その功力を得て、亡魂も、また回向する人も大功徳をうけることになります。
そこで、塔婆を供養するにあたって、まず考えなくてはならないことに、人間の死後の問題があります。これは大変むずかしいことで、その解明は世界の中で最高の哲学であります。
大聖人は前に引用したように、私達人間の身体も、また宇宙や一切の森羅万象もすべて地水火風空の五大の元素から構成されていると仰せです。この五大は分解してはまた集まり、集まってはまた分解するというように、常に離合をくりかえしています。人間も一たび死ぬと、もとの元素に戻ります。この時人間を形作っている肉体が分解され、無に帰したように見えますが、その生命の業(因縁因果による色心の状態)は、永遠に宇宙の中に生きていくのです。しかも、生前中から死ぬ時に至る善悪の果報をそのまま死後の世界までもちつづけますから、苦しみ悩み、あるいは間違った教えにまどわされて死んで行けば死後の世界でも苦を感ずるわけです。
そして、もし先祖や親戚・知人で亡くなった人の中に死後の世界で苦しんでいる人があれば、生きている遺族の側にも其の苦しみや悩みが影響してきます。ですから、遺族の人達の強い信心と御本尊の功力によって亡くなった人が成仏の境界にならないと生きている人も、此の社会もほんとうの幸せにはならないということになります。このことを仏教では「三世の益に欠けるが故に五濁悪世となる」といわれています。したがって塔婆供養・先祖回向ということが必要になってくるのです。
前にも記したように五輪の塔婆に題目をしたためて戒名や俗名を書けば、それは、亡くなった人の体をあらわしています。そして御本尊にお経をあげ、お題目を唱えるとその塔婆は仏界を現じ、御本尊のお力によって亡くなった人の生命に感応するのです。この感応妙というのは、御義口伝に「衆生に此の機有って仏を感ずる、故に名づけて因と為す。仏機を承けて而も応ず、故に名づけて縁となす」(新編1728頁)と説かれているように、衆生の善根が仏を感じて発動する時、その衆生の性欲に応じて仏様が慈悲を垂れることで、仏様の心と衆生の心が融け合うことによって仏果を成熟させるのです。「成仏したい、成仏させたい」というこちらの一念心を仏様がお感じになるということで、塔婆供養の場合は、回向する者の一念心が大切な因となります。これはまことに難解なことですが、塔婆供養はこの感応妙の原理によって死者が成仏の境界に進むのです。
草木成仏口決に「我等衆生死する時塔婆を立て開眼供養するは、死の成仏にして草木成仏なり」(新編522頁)と仰せられています。生きている者が大御本尊にしっかりとお題目を唱えると成仏できて幸せになるように、塔婆供養の原理は自分で意志表示の出来ない亡者や、非情の草木が御本尊の慈悲、お題目の力によって成仏できるのです。
塔婆を立てると亡くなった人はもちろん、供養した人もまた、大きな功徳をうけることができます。その功徳の大きさは量り知れないとたくさんの経文に説かれています。
「昔印度に波斯匿という王様がありました。ある時仏様の所へ行って『私は占い師にみてもらったところ、あと七日しか寿命がないといわれたので大変苦しんでいます。どうかこの苦しみを救って下さい』といいました。これを聞いた仏様は『王様よ、そんなに苦しむことはありません。あなたが命を延ばして幸せになりたいのでしたら塔婆を立てなさい。
塔婆をたてるその功徳はとても大きくて量り知れない程です。塔婆建立のことはあらゆる仏様がほめたたえています』と申され、また次のような因縁話をされました。『大昔ある牧場に一人の子供がいました。そこへ占い師が来て、その子供はあと七日すれば死ぬであろうといいました。ところがその子供は他の子供とママゴト遊びをしながら自分の背の高さ位の塔婆を建てました。するとその子供は、其の塔婆を建てた功徳によって七年も長生きしたといわれています』。この話を聞いた波斯匿王も発心して盛んにたくさんの塔婆を立てたところ、仏様のお言葉通り、大功徳を受け、寿命も長く延ばすことができて、王の家は栄え、体も健康になり一生幸せな生活を送ることができました。」
このようなことが仏説造塔功徳経に説かれています。
また法華経方便品に「土を積んで仏廟を成し乃至童子の戯れに沙を聚めて仏塔と為せる、是の如き諸人等皆已に仏道を成じき」と説かれ、大聖人も「丈六のそとばをたてゝ、其の面に南無妙法蓮華経の七字を顕はしてをはしませば、乃至過去の父母も彼のそとばの功徳によりて、天の日月の如く浄土をてらし、孝養の人並びに妻子は現世には寿を百二十年持ち」(新編1434頁)と仰せになっています。
このほかたくさんの経文に塔婆供養の功徳が説かれています。たとえば塔婆供養をすると寿命を延ばせる、大きな福運が積める、常に仏様のお慈悲をうけることが出来るなど、仏法上、とくに大聖人の教えから見ると、塔婆建立の意義はまことに深いものがあります。
亡くなった人に追善回向をするには塔婆供養が最上の方法で、亡くなった方は塔婆供養を待ちこがれています。
御本尊をはなれた塔婆回向は真の供養とはいえません。私達はまず第一に御本尊を信じ、御本尊を生命をかけて護り、御本尊を中心に一所懸命信心修行して功徳を積み、その功徳善根をもって亡くなった人に塔婆回向をしなくてはなりません。
私達の毎日の生活の中に報恩の心、追善の気持を忘れることなく、そして正しい塔婆供養の意義を理解して、故人の成仏をご祈念いたしましょう。
初参りについて
生まれた子が、初めて寺院に参詣するのを初参りといいます。ふつう、この際授戒も受けます。世間では、お宮参りとか、産土詣でといって、氏子入りをさせるため、土地の神社に参拝する習わしですが、大聖人の教えを信ずる私たちは、赤ちゃんを神社などへ連れていってはいけません。それはなぜかというと、
大聖人は、
「此の国は謗法の土なれば守護の善神は法味にうへて社をすて天に上り給へば、悪鬼入りかはりて多くの人を導く。仏陀は化をやめて寂光土へ帰り給へば、堂塔寺社は徒に魔縁の栖と成りぬ、国の費え民の歎きにて、いらかを並べたる計りなり。是私の言にあらず経文にこれあり、習ふべし」(新池御書・新編1458頁)
と仰せられ、神社や、他宗の寺などで、祈願すれば、善事のつもりであっても、悪鬼と縁を結ぶこととなり、かえってそれは、謗法行為となるからです。
初参りの日について、世間では、生後30日前後、あるいは百日前後と、土地の風習によりさまぎまですが、本宗では、特に何日目という定めはありません。赤ちゃんの生育のようすや、健康を中心として、常識的に考えればよいのです。ある程度抵抗力がつき、首も坐るなど、外へ連れて出ても大丈夫な状態になってからがよいでしょう。その意味では、一般に百目位たってからで、赤ちゃんの気げんがよく、天候に恵まれた日を選んで参詣するのがよいと思います。
また、祖母が赤ちゃんを抱き、母親が付き添ってお参りするとか、祝い着を着せるなどの習慣もありますが、むろん、これらにこだわる必要はありません。赤ちゃんが初めて寺院に参詣して、御本尊にお目通りし、授戒を受ける厳粛な行事であり、親として健全に育ち、行く行くは法灯相続して、信行に励む立派な人になるよう祈念するところに初参りの意義があるのですから、両親そろって参詣するほうが望ましいといえましょう。
大聖人は、
「就中、夫婦共に法華の持者なり。法華経流布あるべきたねをつぐ所の玉の子出で生まれん。目出度く覚え候ぞ。色心二法をつぐ人なり。争でかをそなはり候べき。とくとくこそうまれ候はむずれ」(四条金吾女房御書・新編464頁)
と仰せのとおり、妙法を受持し、実践する夫婦の間に生まれる子供は、正法が流布していく種を継ぐべき者として、この世に生まれてくるのです。法華経法師功徳品にも、「安楽産福子」と説かれており、妙法の縁によって生まれてくる大切な子供であります。
正法を持つ私たちは、初参りについて、ただ世間的な人生の慶事としてのみではなく、正法広布の種を継ぐべき「福子」であるゆえに、その誕生を寿ぎ、健全な生育を祈念するという意義を忘れてはならないと思います。
七五三について
七五三が、現在のように、三歳の男女児、五歳の男児、七歳の女児の祝いとして、11月15日に、日を決めて行われるようになったのは、江戸時代の中期といわれています。
それ以前には、7・5・3歳の男女児の各々の誕生日に、祝儀を行ったといわれています。
その三歳の祝いは、男女児ともに「髪置の式」と呼ばれていました。これには人望の厚い人を選んで「髪置の親」として式を司どってもらいます。
まず祝いの間としての部屋を整えて、髪結いの道具を一式揃え、3歳の男女児を、中央に着座させます。3歳になると、はじめて頭髪を長く蓄えるので、それを円形、又は輪形(ドーナツ型)、に残し、その周囲を剃り落します。現在のお河童頭というのはその名残です。
「髪置の式」が終わると、寺院や神社に参詣し、更に近所・親類・縁故の人たちを招いて祝宴を催し披露します。
5歳の男児の祝いは、「袴着の式」と呼びました。男児は、5歳になると、大人と同じ装いをするようになり、袴を着用します。この式も人徳ある人に依頼して行います。まず、祝いの間を設け、広蓋に袴、小袖、扇や足袋などを入れて置きます。祝い児は袴を着けるばかりにして部屋の中央に立たせ、つぎに袴を左足から着け、扇子を腰に差すのが習わしであります。そのあとで三献の杯を行い、寺院や神社に詣で、親類縁故を招いて祝宴を開きます。
次に、7歳の祝いは、女児の祝いとされてきました。この祝いは、幼子期から少女期への移り目で、子供の成長の段階として、重要な意味があり、この年齢になると、着物に直接縫い付けてある帯代りの紐を取り除くので、「帯直しの式」とか「帯解きの式」などといわれます。これより、四ツ身か、本裁ちの二枚重ねの振り袖を着せ、幅広い帯を締めます。
この祝日は、3歳・5歳のときのよりは重要な意味を持つものとされていました。この時も寺院や神社に参詣を行い、一般には、これを七つ詣りといいました。
以上の3、5、7歳の祝いは、普通は、各々の誕生日に行われていたようです。また、地方によって、その呼び名、祝儀の内容、行われる年齢の異なる場合も多くあります。
それが、11月15日に行われるようになったのは、一つには、この日は鬼宿日といわれ、全てが吉の日と考えられていたことにもよります。
また、徳川五代将軍綱吉の子、徳松の祝いが、天和元年(1681年)11月15日に行われました。じらい、これが一般化して、今日のように誕生日にかかわりなく、七五三歳の祝いは、11月15日に行われるようになったとも伝えられています。
また、七五三の祝いには、千歳飴が見られます。これは、江戸時代の初めに、大阪で平野甚左衛門という人が水飴を初めて作り、後に、江戸浅草に出て、神社や寺院の門前で売り出したのが始まりで、長生きするようにとの縁起をかついで、「千歳飴」と名づけ、専ら、子供の宮参り、七・五・三専用のものとして広まったといわれています。
以上が七五三祝い、千歳飴の由来であります。
日蓮正宗の信徒としては、七五三祝いを信心という面から、考えていかなければならないと思います。
大聖人は、
「子は財と申す経文あり」(上野尼御前御返事・新編1552頁)
また、
「女人は門をひらく、男子は家をつぐ。日本国を知りても子なくば誰にかつがすべき。財は大千にみてゝも子なくば誰にかゆずるべき。されば外典三千余巻には子ある人を長者といふ。内典五千余巻には子なき人を貧人といふ」(上野殿御返事・新編1494頁)
とも仰せられて、子供は無上の財であると教えられています。親にとって、子供は宝であると同時に、社会全体から見ても、子供は財であることに違いないのであります。
特に本宗の信仰をする者にとって、子供とは、大聖人の仏法を受持し、広く流布して行く大事な後継者であります。
本宗では、一応世間の風俗に慣って、七五三祝いの日に寺院でその祝儀を行います。
また、この日は三祖日目上人の祥月命日に当たります。広宣流布の時には、日目上人が出現せられるという、宗門古来のいい伝えがあります。したがって、この日に寺院に参詣して仏祖三宝に御報恩申し上げ、今後の息災と成長、更に信心倍増をお祈りし、親子共々広布への精進と、成仏を願うことに深い意義があるのであります。
成人式について
一般の成人式は、「国民の祝日に関する法律」に定められている、1月の「成人の日」に、満20歳をむかえた青年男女を対象として行われる祝いの儀式であります。
この成人式に類する儀式は、洋の東西を問わず、古くから行われているようですが、「成人」の観念は、その時代・文化などの環境・風俗習慣によって異なり、式に臨む心構えも自から異なっているようです。
現に文明未開の地には、今なお、男子は死を賭して儀式に臨み、それを無事に済ませなければ一人前の男子として認められないという厳しい成人式も見られます。
我が国の古代における成人式は、大体中国の例に習い、元服をもって、成人になったことをみとめていたのであります。
元服の元とは、首の意であり、服とは、着用することで、首に冠を着ける。すなわち、大人の衣冠を着ける儀式のことであります。「冠とは礼の始め也」といい、四大礼、すなわち、人生における大きな冠婚葬祭の四つの行事の最初の『冠』に当たるのであります。
男子は、天武天皇の11年(683年)に結髪加冠の制度が設けられ、じらい広く一般に冠帽着用の風習が普及し、幼年の髪型を改めて、冠または烏帽子を戴く儀式が行われました。これを初冠、初元結とも呼ばれて、烏帽子祝いを行ったり、また、貴人は童名を廃して改名、叙位が行われるなど、姿、形の上に成人になったことを示し、それによって、大人の仲間入りをし、大人としての社会的信用と、その責任を負ったのであります。
女子は、髪上、着裳などをもって成人のしるしとし、また、一般庶民は前髪を剃るなど、時代と住む社会によって、その年齢、風俗、慣習の異なりが見られます。いずれも、成人としての自覚と責任を明確にする意味で、姿、形、立場の上に、大人と子供の区別がはっきりと示され、それによって成人としての誇りが与えられていることが注目されます。
本来成人とは『ひととなる』ことであり、論語では『学徳兼備の完全な人物』を指しています。しかし現在の成人式は、一応心身共に発達し、完全な行為、思考能力を有するに到る年齢を満20歳と定め、この日を期し社会の一員となることを祝う『国民の祝日』として行われているのであります。
したがって、20歳の青年たち全部に対し、完全な人格を求めるのはむずかしいことであるといえます。
物質文明と、精神文明との格差の著しい現代、そして、理想的な精神的訓練や薫陶が、あまりにも見失われている今日、よほど確たる信念がなければ、成人の自覚と誇りを持つことはできないでしょう。
もともと成人式の日を境にして、子供と大人との区別ができるものではありません。それ故に、単に社会の一員となった責任と権利を自覚するだけでなく、生涯「ひととなる」ことへの努力を積み重ねてゆくことが肝要であります。そこに、真の人生の目的と意義を示された大聖人の仏法にたいする信心の必要性があるのであります。
経文に、
「諸の衆生、虚妄に是は此、是は彼、是は得、是は失と横計して、不善の念を起こし、衆の悪業を造って、六趣に輪廻し、諸の苦毒を受けて、無量億劫自から出ずること能わず」(開結18頁)
と説かれているように、凡夫が悟りを得ることは、なかなかむずかしいことです。
「心の師とはなるとも心を師とせざれ」(曾谷入道殿御返事・新編794頁)
と説かれているように、煩悩や欲望、悩みの多い凡心の赴くままでなく、その凡心を自然に正しく発揚し、正しく赴かせるところの、いわゆる心の師となる方法を知らなければならないのであります。
大聖人の大御本尊こそ唯一無二にして、あらゆる人生の師であり、一切の指導原理の根本であります。
御本尊に向かって、南無妙法蓮華経と唱え、信心修行してゆくことによって、しらずしらずのうちに、立派な妙法の大人格的境界に成長して行くのであります。
本宗信徒である私たちは、まず寺院に参詣し、成人を迎えたことへの報恩感謝を申し上げるべきであります。
さらに、
「一生空しく過ごして万歳悔ゆること勿れ」(富木殿御書・新編1169頁)
の御金言を心肝に染め、生涯御本尊を受持し、広宣流布の人材として、更にまた、立派な社会人として成長することを御祈念するところに、日蓮正宗の信徒としての、まことの成人式の意義があるのであります。
結婚式について
異なった環境に生まれ育った男女が、互いに結びつき、家庭生活を営むことが結婚であります。
古来、冠婚葬祭という言葉で示されているように、結婚式は、人生において、もっとも大切な儀式の一つといえましょう。
したがって、昔から全ての国々や民族において、あらゆる人々が、結婚式というものを厳粛に考え、二人の人生の門出として、親族・友人・知己をあげて、祝福してきたのであります。
普通、我が国での結婚式は、神社や教会で、神官や牧師が、主宰して行うか、あるいはそれにかかわりなく、公民館や自宅などで行われているようです。
しかし、必ずしも、神社で式を行う人が、そこに祀られている神の信仰者であり、教会で行う人が、キリスト教徒であるということではないようです。つまり、結婚する当人たちの信仰の有無などにかかわりなく、場所や形式が選ばれています。これはまったく意味のないことであります。たとえ、二人がそれぞれなんらかの信仰をもっていたとしても、深い考えもなく、一般的な通念によって、これら神社や教会で式を行うことは、結婚の根本的意義と宗教の正邪を知らないものといえましょう。
日蓮正宗の信徒の結婚式は、両人が、日蓮正宗寺院の御本尊の前において、夫婦の契りを結ぶことを基本とします。これは、唯一の正法を受持した夫婦が、その信心を基盤として、健全な家庭を築き、本仏大聖人の広大な大慈悲に報いるため、正法興隆を期して精進し、またあわせて家運の隆盛、子孫の繁栄を祈り、法灯相続を願うという、深い意義と目的があるのです。したがって、結婚式を、神社や教会で行うことは、全く誤りであります。
大聖人は、夫婦の在り方について、
千日尼御返事に、
「をとこははしらのごとし女はなかわのごとし。をとこは足のごとし、女人は身のごとし。をとこは羽のごとし、女はみのごとし。羽とみとべちべちになりなば、なにをもってかとぶべき。はしらたうれなばなかは地に堕ちなん」(新編1476頁)
兄弟抄に、
「女人となる事は物に随って物を随へる身なり。夫たのしくば妻もさかふべし。夫盗人ならば妻も盗人なるべし。是偏に今生計りの事にはあらず、世々生々に影と身と、華と果と、根と葉との如くにておはするぞかし……夫と妻とは是くの如し」(新編987頁)
富木尼御前御返事に、
「やのはしる事は弓のちから、くものゆくことはりうのちから、をとこのしわざはめのちからなり」(新編955頁)
と、お示しのように、夫婦は二をもって一とし、はじめてその働きが全うするのであります。
人生の第二の出発点にあたり、大聖人の御聖訓をよく拝し、結婚の深い因縁と意義を自覚することが大切です。
地鎮祭について
自然界に起こるさまぎまな現象は、古代の人々にとって不思議な出来事であり、畏敬の念をいだかせるものであったに違いありません。落雷や木の幹がこすり合って火がつくのを見ては驚き、山の噴火による煙をみては恐れ、洪水や台風に遭っては、水や風の神の怒りによるものと怯えていたことは、容易に想像できるところであります。
このようなことから、土地には地の神があると考え、家を建てたり、道などをつくるときに、その地神を鎮め祀り、工事の安全と将来の繁栄とを願って、地鎮祭が行われるようになったと思われます。
古代では、この祭儀に「鎮物(忌物)」として、山形、盾、鉾、刀子、鏡、玉、銭などを折櫃や石櫃に入れて、その敷地の中央及び四方に埋納しました。こうすることによって人々は災禍を避けられ、すべてが安穏無事になると信じたのであります。
しかし、これは古代の素朴な発想によるものであり、現代の民衆がそのまま受け入れるとは思えません。しかしこれらの考えの根本にある宇宙法界の真理は、大聖人の仏法によってのみ教示されるところであり、したがって、真実の地鎮の意義も、この仏法を離れては存在しないのであります。
私たちの住むこの地球、更に広大な宇宙全体も、大きく有情と非情の二つに分けることができます。人間をはじめ、意識のあるすべての生物を有情といいます。これに対し、木や石など意識のないものを非情といいます。そして大切なことは、有情はもちろんのこと、非情にも必ず智慧と慈悲を円満にそなえた仏のいのち、すなわち仏性が具わっているとい
うことであります。
大聖人は観心本尊抄で経文の、
「乃ち是、一草・一木・一礫・一塵、各一仏性・各一因果あり縁了を具足す」(新編646頁)
の文を引かれて、草木成仏の証明とされ、
さらに草木成仏口決に、
「妙法とは有情の成仏なり、蓮華とは非情の成仏なり。有情とは生の成仏、非情は死の成仏、生死の成仏と云ふが有情・非情の成仏の事なり」(新編522頁)
と示され、有情非情共に正しい御本尊に対し題目を唱えて祈念すれば、必ず仏になることができることを証明されているのであります。また、
一生成仏抄に、
「衆生の心けがるれば土もけがれ、心清ければ土も清し………只我等が心の善悪によると見えたり」(新編46頁)
とも仰せられています。
したがって、地鎮祭というのは、御本尊の大功力と我ら正法を持つ僧俗の信心をもって、九界の迷いや謗法によって穢れた非情の敷地を鎮め清める儀式であります。
この儀式を修することによって、
その地は、
法華経寿量品の、
「我が此の土は安穏にして 天人常に充満せり」(開結441頁)
の御文のように安穏な土となるのであります。
地鎮祭には、敷地の中央に、御僧侶が奉持した御本尊を安置申し上げ、仏具を調え、季節の果物、洗米や塩、お造酒などをお供えし、読経唱題、祈念いたします。
起工式について
起工式とは、その文字の示すように、工事を始めるに当たってとり行う儀式であります。大はダム工事のような大がかりなものから、小は住宅などさまざまな場合があります。これは工事を起こすことを、関係者一同で寿ぎ祝うとともに、滞りなく無事竣工を祈る行事であります。
現在の起工式に類する儀式として、昔は、木匠が建築にとりかかる初めの日に、手斧(釿)始、木造(木作)始などといって行っていました。古い記録では、日本紀略、天徳4年(960年)の項に木作始を行ったことが載っています。
総本山大石寺でも、31世日因上人の時代、五重塔を建立する際行われ、「宝塔建立之由来」には、
「延享四年(1747年)六月廿八日釿始儀式執行」
と記されています。
本宗の起工式の仕方や準備する品は、おおむね地鎮祭に準ずればよいのです。なお、鍬入れを行う場合は、祭壇のわきに砂を盛って鍬や鶴嘴を用意し、読経後、導師、願主、施工者の順に軽く三度砂に打ち込みます。
いずれにしても御本尊を中心に行うことが何よりも大事であります。家屋に例をとると、一度落成すれば何十年あるいは何百年という長い寿命をたもつものです。起工式はその出発点に当たるといえましょう。したがって、この大事な門出において、御本尊に祈る願主の強盛で清らかな一念が最も大切であります。そこに、必ずや工事の安全と順調な進捗、見事な完成が期待できるのであります。
上棟式について
上棟式は一般に「棟上げ」とも「建前」ともいわれ、地鎮祭起工式の後、いよいよ家屋の基礎となる骨組み、結構がととのい、重要な部分である棟木を上げたとき、行われる儀式です。
昔は上棟よりも、むしろ「柱立」の儀式が主に行われていたようです。しかし、上棟も柱立も、その主旨は同じであるといえましょう。
この儀式の歴史は古く、平安時代にすでに行われていた記録があります。その後、だんだん上棟の方が一般化し、江戸時代になると盛んに行われるようになってきました。
この上棟は、もともと小屋組の完成を祝う建築儀礼の一つとして行われてきましたが、中には魔除けの意味を含めた風習を伝える地方もあります。つまり、家屋の骨組みができたとき、その家に不幸や災をもたらす「魔」が住みこむのではないかと恐れ、これを防ぐため棟の上に、幣串、破魔の弓矢、櫛など女性の化粧道具をかかげたりします。
世間では、自分の信仰の如何にかかわらず従来の慣習によって、いろいろな魔除けを行っていますが、所詮、それは上棟式の意義を知らないものであり、その家の正しい繁栄につながるものとはいえません。
そこで、宗祖大聖人の下種の仏法を受持する私たちは、御書にお示しのように、その意義を正しく認識し、儀式をとり行うべきであります。
すなわち世間一般的な方法によらず、正法の義をふまえ、なによりも御本尊中心に行うことが大切です。
大聖人ご在世中にも棟上げを行われたことが御書の中に拝されます。すなわち、上野殿が屋形新築につき、「棟札」を願い出られたのに対し、
大聖人は、
「一つ、棟札の事承り候。書き候ひて此の伯耆公に進らせ候」(上野殿御書・新編902頁)
とあるように棟札をしたためられ、日興上人がこれをお持ちして上野殿の館に向かわれたようすがうかがえます。
さらに、この御書に、「須達長者祇園精舎を造りき。然るに何なる因縁にやよりけん、須達長者七度まで火災にあひ候」と説かれ、その火災の起る由縁を、「仏答へて曰はく汝が眷属貪欲深き故に此の火災の難起こるなり」と仰せられています。
この「貧欲」を、末法にあてて考えれば、唯一の正法である南無妙法蓮華経を信ぜず、末法の御本仏大聖人を尊敬しないで、徒に世間の財欲、権欲などにとらわれる事を指します。したがって、日蓮正宗の信徒として正法に縁した私たちが、
「いかに強敵重なるとも、ゆめゆめ退する心なかれ、恐るゝ心なかれ」(如説修行抄・新編674頁)
と示された御金言のままに信行に励むならば、法城である家屋の内に、災をもたらす「魔」が侵入する道理がありません。必ずや諸天善神によって、昼夜の別なく守護されるのであります。
また、法華経薬王品に、
「是の経を受持し、読誦し、思惟し、他人の為に説けり。所得の福徳、無量無辺なり。火も焼くこと能わず、水も漂わすこと能わじ」(開結538頁)
と説かれるのも、南無妙法蓮華経の御本尊を受持する人の功徳を示すものであります。
要するに、上棟式とは、家屋新築の骨組みの完成するめでたい慶事に際し、御本尊を奉掲し、仏祖三宝に御報恩申し上げるとともに、更に工事の無事竣工と家屋の安全とを御祈念する儀式であります。
なお、上棟式の御本尊奉掲用の板、前机、供物の品目、三具足、鈴などの用意は地鎮祭に準じます。
葬式について
人類の起源このかた、生あるものは必ず滅びるの言葉どおり生死をくりかえしてきました。この厳粛な事実は、経験的に誰しも知っていたに違いありません。しかし人が死ぬという現象に対して、他の遺された人達が弔いの儀式を行うようになったのは、かなり後のことと思われます。
インドにおいては釈尊在世中、父浄飯大王の葬式の模様が、浄飯王般涅槃経というお経に詳しく書かれています。そのようすは現今とさほど変らず、火葬も行われたと記されています。
日本では、上古土葬が行われていましたが、仏教の伝来とともに火葬が伝えられました。初めは高貴な人たちの間で行われ、十世紀以降には、広く民間の風習として広まったようです。
葬式は、単なる形式ではなく、故人が今生を終わって、苦楽さまぎまの未来を開く境目であり、遺されたものが一心にその即身成仏を願う大事な儀式であります。そのためには、正しい宗教によるべきです。仏教の中でも、法華経の根元である大御本尊によってのみ、それがかなうことを知らなくてはなりません。
葬儀に奉掲する曼荼羅は、死者が即身成仏し、寂光浄土へ引導されるための御本尊であり、特に、導師曼荼羅と称されております。この曼荼羅は、「衣」ともいわれ、経文に、「裸者の衣を得たるがごとし」とあるように、死者の恥を隠す信楽、慚愧の衣となって、現世と来世との関所を通るともいわれております。
次に戒名は、その初め、出家して仏道に帰依し、五戒・十善戒・具足戒・菩薩戒などの戒を受けた者に対して、俗名を改めて法号を授けられました。この法号を戒名といったのであります。後世には、在家のままで仏門に帰依し、受戒式に加わった者も戒名を受けるようになり、また、生前戒名を受けなかった者には、死後与えられるようになりました。現在では、死者につけられる諡号(おくりな)として、一般に知られております。
さて本宗においても、以前は間々御受戒の際に戒名を授けたこともありましたが、現在ではほとんど死亡した時に授けられています。
位牌と過去帳 位牌は、もと中国の儒家において、「霊の座」として、儀式に使われていたのが、宋の時代に仏教に転入して、用いられるようになりました。仏教、神道においても、次第に儀式などに使うようになりました。位牌の書きよう、及び大きさは、各宗において色々ありますが、死者の戒名、俗名、死亡年月日、年齢などを書くことに違いはありません。
一般仏教各派においては、位牌そのものを霊・霊魂というように解釈し、仏壇にいつまでも安置して、礼拝する習慣がありますが、これは正しい祭り方ではありません。日蓮正宗において位牌は、拝む対象ではないとされております。すなわち、死者の霊は、妙法蓮華経の御本尊の内に帰入してこそ成仏ができるのであり、位牌が、戒名を印すものであっても、それを中心にして拝むということは誤りであります。
本宗においても、葬儀の場合に白木の位牌を用いますが、五七日忌、七七日忌などが終り次第、戒名を速やかに寺院に申し出てその家の過去帳に記入していただき、位牌は、寺院に納めるのが最もよいのであります。
日有上人の化儀抄に、
「神座を立てざる事、御本尊授与の時、真俗弟子等の示し書之れ有り、師匠有れば師の方は仏界の方弟子の方は九界なる故に、師弟相向かう所中央の妙法なる故に、併しながら即身成仏なる故に他宗の如くならず、是れ則ち事行の妙法事の即身成仏等云云」(聖典996頁)
とあります。
法事について
法事とは、故人の命日・忌日などに追善供養のため、営む法要のことです。私たちが亡き肉親・知人などのために、善根を積み、その功徳をもって、故人の抜苦与楽・仏道増進に資するのであります。
優婆塞戒経に、
「苦し父喪し已りて、餓鬼中に堕つるに、子為めに追福すれば当に知るべし即ち得」
とあるように、故人の苦しみを救うことができるのは、遺された人たちの追善供養のほかにはないのです。
大聖人は、
「我が父母・地獄・餓鬼・畜生におちて苦患をうくるをばとぶらはずして、我は衣服・飲食にあきみち、牛馬眷属・充満して我が心に任せてたのしむ人をば、いかに父母のうらやましく恨み給ふらん」(四条金吾殿御書・新編470頁)
と示されています。自分は何一つ不自由ない豊かな生活をしていながら、親や先祖の法事も営まず、追善供養を怠るならば、故人はどんなに恨みに思うことでしょう、との意です。
また、富木入道や阿仏房の遺子藤九郎は、親の遺骨を頸にかけて、はるばる大聖人のもとへ参り、懇ろな御回向をお願いしています。また、富木入道は母親の三回忌に当たり、身延の大聖人のもとへ御供養を奉り、追善供養をお願いしたことがうかがえます。曾谷入道、千日尼、刑部左衛門尉女房なども同じように、親の十三回忌に追善供養を行っていたことが御書に拝されます。
このように遺族として、心から故人の追善供養を行ったことにつき、
大聖人は、
「其の時過去聖霊は我が子息法蓮は子にはあらず善知識なりとて、娑婆世界に向かっておがませ給ふらん。是こそ実の孝養にては候なれ」(法蓮抄・新編820頁)
というように、その功徳を称讃されています。
私たちも、恩知らずの不孝者とならないよう、忌日、年忌には、真心をもって追善の仏事を行いたいものです。
もちろん、この追善は、正法によって行うことが肝心であります。いくら志が厚くても、誤った宗教によって修したのでは、かえって故人を苦しめることになってしまうからです。末法の正境である御本尊を中心に営むことによってのみ、初めて正しい追善供養が可能となるのであります。私たちが御本尊に向かって、読経・唱題することにより、御本尊の仏力・法力と私たちの信力・行力の四力が成就し、そこに生じた功徳を故人に回向してこそ、真の追善供養になるのです。
故人が亡くなった日を入れて七日目が初七日忌、さらに数えて七日目毎に二七日忌、三七日忌、四七日忌、五七日忌(三十五日忌)、六七日忌、七七日忌(四十九日忌)となり、この後は百箇日忌、一周忌、三回忌(二年目)と続きます。
この忌日について、現代の我々はどのように考えるべきでしょうか。それは結局これらの忌日が幽界のみに限らず、顕冥の一切の生命の何らかの変化・節度の時期に当たっているのであります。ゆえに、この時を基準として、特に塔婆を建て法事を行うのです。
一般に、初七日忌と七七日忌(又は五七日忌)には、僧侶を迎えるか、あるいは寺院において、法事を営みます。他の七日目ごとには寺院に参詣して、塔婆供養をするのが普通です。また地方により、遺骨は直ちに墓地に埋葬するところと、七七日忌(又は五七日忌)の法要が済んでから、埋葬するところがあります。墓地がなければ、寺院あるいは総本山大納骨堂に納めることもできます。
埋葬や墓標、墓石などを建てる場合には、寺院に相談してください。
なお、三回忌の後は七回忌、十三回忌、十七回忌、二十三回忌、二十七回忌、三十三回忌、五十回忌などがあります。
自宅で法事を行うときは、早目に寺院の都合を問い合わせた上、申し込みます。法事は、故人の忌日に行いますが、都合のつかない場合は、遅れないように繰り上げて早目に行う方がよいでしょう。また、寺院の本堂で行うこともできますが、この場合も前もって申し込むことが必要です。
|